中国語には時制がない。
「そんな馬鹿な」と思うのももっともな話ではあるが、代わりに「アスペクト」という概念によって、不自由なく表現することができる。なのだが、これについては独学でWhy?にこたえるはじめての中国語の文法書を一読したきり常にその場しのぎでやってきたので、本格的に勉強を開始したここらで整理しておく必要があると感じ、以下自分なりに心ゆくまでまとめていくことにする。Why?本を基にしつつも、学術的に誤ることを恐れずに自分が理解しやすいように強引に整理する方針ではあるが、致命的な間違いなどあれば是非ご指摘を頂きたい。
(注:本記事は中国語に興味がある初心者以外には無益な自分用のまとめです)
アスペクトの全体像
アスペクトは日本語で「相」といい、ある動作の発展変化の中のどの段階に動作があるかを示すものである。Why本にある素晴らしい図式を基に、少しだけ改変してみたのが以下となる。
カッコ内はアスペクト・マーカーと呼ばれるもので、動詞に付属させることでどのアスペクトを示しているかがわかるようにするものである。
アスペクトは動作の相を表すものなので、時間の概念とは関係がない。冒頭の通り「中国語には時制がない」ので、「いつ行われたか」自体は「明天」や「昨天」といった語句で表すことにより、過去・現在・未来のいずれとも紐づくことができる。
なお、開始相と継続相はWhy本において「方向補語の派生義」として扱われているので、本記事では取り扱わないことにする。
進行のアスペクト
基本的な使い方
動詞を”正在…呢”で包み込むのが進行のアスペクトマーカーだが、この「正」「在」「呢」のうちどれか一つでもあれば進行のアスペクトを示すことができる。
(〇)他们正在吃午饭呢。
(〇)他们正吃午饭。
(〇)他们在吃午饭呢。
(〇)他们吃午饭呢。
但し、「呢」だけで表す際は、目的語か連用修飾語を伴っているのが普通である(上記でいうと午饭)。よって、伝わるかどうかは知らないが以下は望ましくない。
(△)他们吃呢。
また、中国語では同字同音の連続を避けるため、場所を表す介詞が文中に入る時には、「正在」の「在」は必ず省略される。よって、
(〇)他正在屋里睡觉呢。
(×)他正在在屋里睡觉呢。
となる点には留意しておく。
ところでWhy本においては、「呢」自体にアスペクト的な意味があるというよりは、単なる語気助詞として平叙文において「進行や持続のアスペクト、及び『还』や『可+形容詞』と相性がよく、しばしば文末に置かれる」といった形で説明されており、用法として暗記するのもいいのだが、本質的に平叙文においてどのようなニュアンスを持つ語句なのかはここからだけでは定かではない(第34課。なお疑問文においては「思いまどいのような気持ち」を表す語気助詞であるとされる)。
進行:他正在睡觉呢(彼は眠っているところだ)
持続:外边儿下着雨呢(外は雨が降っている)
还:她还会弹钢琴呢(彼はピアノも弾ける)
可+形容詞:今天可冷呢(今日は本当に寒いなあ)
と、上記のように並べて考えて見てもちょっとよくわからない。進行と持続については「まだ続いてる感じ」が表されているんだろうか?还と可+形容詞に関しては「~なんだよなぁ」という語気が入っているような気もするんだが、すると進行・持続での使い方とは異なるもののように感じられる。一旦、こういうものだとして暗記するしかないか。
否定文
考え方
進行相に限らず、アスペクトの否定形には常に「没(有)」が使われる。感覚としては、「不~」は「~とは違う、~ではない」という感じなので、ともかく何かが「実現」したことを表すアスペクトの否定においては「~がない、~してない」といった意味で「没有」が使われるイメージとして捉えることができるだろうか。正しい文かわからないが、以下のように考えると自分としては理解がしやすい。
他不吃:彼は吃ということをしない(彼はご飯を食べない)
他没(有)吃:彼は吃というアスペクトを実現していない(彼は食べていない)
否定するときには進行のマーカーは取り払ってしまうのが普通。なお、没有の有は省略可能。
(〇)他没有看书。
(〇)他没看书。
なお後で詳細に検討するが、「動作をどう行ったか」に焦点を当てる進行相、完了・実現相、及び持続相のうち動作の持続を表すもの(結果の残存ではなく)については全て「アスペクト・マーカーを取り払って没(有)をつける」という形で表現することができ、それらの間に区別はない(いくつか残してもよいアスペクト・マーカーは存在するが)。
例外
- 否定文でも「在」だけは残ることがある(「正」と「呢」は残らない)
(〇)他没在看电视。 - 常に「没有」を使うという基本原則にいきなり反するようだが、「不是」を使う用法もある(アスペクトの否定ではないので基本原則に反しているわけではないと思うが)。「彼は本を読んでいない」と言う時は上記の通り「他没有看书」なのだが、「彼は本を読んでいるのではない」と言う時には「他不是在看是」と言う。使いこなせるかは別として、現時点で感覚的には理解可能な話ではある
持続のアスペクト
基本的な使い方
動詞の直後に「着」のアスペクト・マーカーをつけるだけ。進行のアスペクト同様、文末に「呢」が入ることもあるが、進行相と異なり「着」は必須。
上記だけなので平叙文でただ使う分には簡単なのだが、(1)動作の持続を表すか(2)動作の結果の残存を表すかで大きく分かれると共に、身体動作に関してのみ、(3)動作の持続かつ結果の残存を表すというタイプもあり、大きく3種類に分かれる。
- 妈妈做着饭呢。 ※持続
- 门开着呢。 ※残存
- 他在椅子上坐着。 ※身体動作
これらのタイプの違いが、A)否定形での用法とB)進行形との組み合わせ可否に以下の違いを及ぼす。
否定形
上表にまとめた通り、(1)動作の持続のアスペクトの場合にはアスペクトマーカーの「着」が消える。つまり、のちに見る完了・実現のアスペクトもそうなのだが、動作そのものに着目するアスペクトの否定形は進行・完了・実現・持続の間に区別がないということになる(Why本でこのようなまとめ方がされているわけではなく我流の考えなので合っているかは不明だが)。
- 他正在吃饭呢⇒(否定)他没吃饭 ※彼はご飯を食べていない
- 他吃着饭呢⇒(否定)他没吃饭 ※彼はご飯を食べていない
- 他吃饭了⇒(否定)他没吃饭 ※彼はご飯を食べていない
アスペクトは動作の状態がどうなっているかを表現するものなので、実現していない動作についてはアスペクトもクソもないということだろうか。一方、仮にも実現しており、残存の状態について表すアスペクトについては否定形でも「着」を残すものとして解釈ができそうだ。
※なお、上記のうち進行の否定形だけは「在」を残すこともできる
※完了・実現の否定の場合には「还没…呢」という表現もよく使われる
進行相との違い
違いの本質
進行と持続はどう違うのか?というのは実は少し頭の整理が必要となる。持続しているということはまだ進行しているということなので、一体何が違うんだっけ?ということだ。
Why本で紹介されているのは、例えば日本語で「彼女は歌を歌っている」という場合、中国語では以下の二通りで言うことができ、それぞれ意味が違う。
- 她正在唱歌儿呢((何をしているのかな?という気持ちが事前にありつつ、実際に歌っているのを見て)彼女は歌を歌っている、というニュアンス)
- 她唱着歌儿呢((さっき歌っていたけどまだ歌っているかな?という気持ちが事前にありつつ、実際に歌っているのを見て)彼女は(まだ)歌を歌っている、というニュアンス)
進行+持続の使い方も可
アスペクトとして見ている部分が近いので、進行相と持続相は相性がいい。実際、進行と持続を組み合わせた、現在完了進行形のような使い方もできる。上述したが、この使い方ができるのは「動作の持続のアスペクト」だけであり、「動作の結果の残存のアスペクト」では許されていないが、この点はことさら意識しなくても感覚として理解することは難しくない。
- 她正在唱着歌呢(彼女は歌っているところだ)
- 他正在打着电话呢(彼は電話をかけているところだ)
完了・実現のアスペクト
基本的な使い方
動詞の直後にアスペクト・マーカーの「了」をつけるだけ…なんだが、実際には目的語が定語(連体修飾語)を伴うかどうかで「了をつける位置が異なる」(後述するようにWhy本によればこの言い方は不正確だと思われ、つける位置が異なるのではなく、使うべき「了」が異なるということのようだが、一般学習者にとってはこの方が理解しやすい)。
否定形
「没(有)」をつけ、「了」を落とす。または「まだ~していない」という場合には「还没…呢」という表現もよく使われる。
もう一つの「了」(語気助詞)
「了をどこにつけるか」問題に触れる前に、文字も発音も同じだが文法的な整理として異なる「語気助詞の了」という概念を導入しておく。これは文末に置き、話し手の「ある自体や状況が既に発生したことを認める気持ち」や「状況の変化に気づいた気持ち」を表す。
- 天气冷了
- 她今年十岁了
- 他买了词典了
- 我写了信了
了をどこにつけるか問題
さて、完了・実現のアスペクトにおける唯一の論点と思われる、「了をどこにつけるか問題」だ。以下の文はいずれも正しいのだが、目的語をどこに置くべきかの規則性が、勉強を始めたばかりの頃には理解できなかった。
(〇)我买词典了。 ※S+V+O+了
(〇)我买了两件毛衣。 ※S+V+了+O
この疑問はWhy本が解消してくれた。以下が原則となる。
定語(連体修飾語)がつく目的語の場合
こちらを基本形として考えることにしたい。Why本で明記されている訳ではないため正しいかわからないが、アスペクト・マーカー(正在,着,了,过など)は全て動詞の直前か直後に密着させるのが原則であると思われる。
定語がつく目的語をとる場合には、この原則から(外見上も)乖離することはない。即ち、以下の通り動詞の直後にアスペクト・マーカーの了を置く。
- 我买了两件毛衣。
- 她吃了三个面包。
- 我买了很多中文杂志。
- 他们参观了我们学校的图书馆。
定語(連体修飾語)がつかない目的語(ハダカの目的語)の場合
ところがWhy本の言う「ハダカの目的語」においてはこの限りではない。どうも、
- (×)我买了词典。
- (×)我写了信。
これらのように「ハダカの目的語」で終わるのは、「まだあとに言葉が続く感じで、どうにも止まらない」からダメとのことである(この理由はいかにも音を大事にする中国語らしいなあ、と感心してしまうのだが)。
ということで、一つの解決法は文末に語気助詞の「了」をつける。こうすると「文が止まる」ということである。
- 我买了词典了。
- 我写了信了。
ところがこの時、動詞の直後のアスペクト・マーカーの「了」は省略可能であり、むしろその方が自然だとすら言う。すると、
- 我买词典了。
- 我写信了。
となり、あたかもV+O+アスペクト・マーカーの「了」となり、「アスペクト・マーカーは動詞に密着させる」という原則から離れたように見える。しかし実際には動詞の直後のアスペクト・マーカーの「了」は省略されているだけで、文末の「了」は語気助詞だから原則から乖離していないということのようだ。
もう一つ解決法があり、それは「文を続けること」。例えば以下の様な形をとれば、一応文が止まるのでOKらしい(なんという音重視の文法なのだろうか)。
- 我买了书,就回家
- 我写了信,就去游泳
実際に話す時には「次に俺が話したい目的語に定語はつくか!?つかないなら了は最後に持ってこないと!」とかごちゃごちゃ考える余裕も時間もないのでどうしたものだろうかと思ってしまうのだが、たぶん実践的には「目的語が短い時は動詞の後につっこんじゃっていい。よくわからないときは動詞の直後に一旦『了』をつけておいて、目的語が短くて収まりが悪そうだったら最後にもう一回『了』をつけても間違いじゃない」みたいな感覚を磨いていくのかな、と思う。作文ならじっくり考えることができるのだけどなあ。
経験のアスペクト
基本的な使い方
アスペクト・マーカーの「过」を動詞の直後につける。否定形は「没(有)」を動詞の直前につけるだけであり、「过」は落とせない。
基本的に上記のみなのでこれが一番簡単なアスペクトかもしれない。但し、以下二つだけ留意点がある。
平叙文と否定文でよくつく副詞が違う
平叙文では動詞の前によく「曾经(かつて、以前)」がつく。
一方、否定文でつけるとするなら「从来(これまで、かつて)」。なんでやねん。
終結の「过」(結果補語)というものがある
例えば以下の文は、「过」が用いられているが「経験」を表すものではなく、その動作が終結したことを単に表す「終結の过」と呼ばれるものである。経験相では語尾に「了」がつくことはないが、終結の过では「了」をつけることができる。
- 樱花已经开过了。(桜の花はもう咲き終わった)
- 他们吃过了去饭,就走了。(彼らは昼食をすますと、すぐ出かけた)
将然のアスペクト
基本的な使い方
「まもなく~する(将(マサ)ニ然(シカ)ラントス)」ことを表すアスペクトであり、「要…了」のアスペクト・マーカーで動詞を包んで表すのだが、前につく副詞によって用法がやや異なり複雑なため以下の表にまとめた。
※将の簡体字はちょっと異なる字なのだが表示できないためこのままにしておく
例外(まもなく~しようとした時)
「まもなく~しようとしたとき(要~的时候)」と言う時には「了」が消える。
- 前天飞机要起飞的时候,忽然下雨了。
- 昨天我要出去玩儿的时候,我爸爸回来了。
否定形
Why本の中に明記されているわけではないのだが、たぶん平叙文において「彼はまもなく~しようとはしていない」というのは少しおかしな表現であるため、将然のアスペクトにおける否定形というのは疑問形に対する返答としてのみ解説されている。
- 她们快要回来了啊?
⇒还没(回来)呢。 - 你们就要开学了吗?
⇒还没(开学)呢。
上記のように、「还没(V)呢」で「まだです」と返す。
まとめ
自分なりに整理してみるとやはりよく理解することができた。以下に再度エッセンスだけをまとめてみる。
参考書
上記の整理は一部自分の考察を交えつつも基本的にWhy本に基づいて行った。Why本は、英語ほどテキストが充実していない中国語学習界において、文法書といえばこれ!という扱いになっていると思われる本である。実際、学習書マニアの自分の目から見ても、仮に英語界に存在していたとしてもめちゃくちゃ優れた文法の解説本と言える。初心者泣かせの「そういうものです、おまじないとして覚えましょう」的な処理がほとんどなく、題名の通り「なぜこうなるのか?」をしつこく一緒に考えてくれる最高の文法書と言える。