香港MBA留学記

香港科技大学MBA留学で経験したこと、考えたこと

ゴビ砂漠にて(2/2)

(前回の続き)

前日に汪哥を含め情報収集したところによれば、EMBAの圧勝の秘訣は概ね以下のようだった。

  • 基本的に一か所ある休憩地点以外では止まらない
  • 休憩地点でも5~10分ほどしか止まらない
  • 隊列を崩さないで詰めて歩く
  • あとはとにかく根性、勝利への意欲が違う

汪哥は特に四つ目を強調していたわけだ。

 

僕らは基本的にこれを模倣し、若さの差分で競り勝つ方針を立てた。

レース再開

苦戦

二日目は一日目とは比べ物にならない辛さだった。普段割と鍛えているはずの自分でも筋肉痛を感じ、歩き方のフォームが崩れたせいか、両膝に大きな痛みを感じた。他のメンバーの中には、もっと辛い人もいただろう。 

汪哥の脱落

休憩所がある中間地点に着く前に、後続がついてきていないことに気づき振り返ると、汪哥の心拍数をドクターが測っていた。しばらくすると、 ドクターに連れられて汪哥が救護隊の車に入っていった。

 

前にいたメンバーに伝えると、「それはいいニュースだ」と言った。ひどいこと言うなあと思いつつも、本当にその通りだと思った。昨日偉そうなことを言っていたくせに早々と脱落しやがって。ペナルティは痛いけど、年の近いメンバーだけでやれた方が楽だし楽しい。

引き続き苦戦

休憩所では10分しか止まらない決まりだったが、Saraの靴擦れが激しいらしく、応急処置に時間がかかり10分が迫るころにまだ出発できなそうだった。「もうすぐ10分だぞ!」そう何人かが号令をかけていると、SaraとNewが涙を流しながら抗議した。

 

「順位を上げたいのは同じ気持ちだけど、そうやってプレッシャーをかけて何になる!」

 

いずれにせよ、どこかのタイミングで歩き出すしかなかった。10分を少し過ぎたところで、また出発した。

 

最終的にはSaraを除く女性二名がほぼ歩けなくなり、男性メンバーが代わる代わる両脇から支え、何とか歩き通した。 それでもいくつかのチームを追い抜くことができた。

 

汪哥がどこに行ったかなんてことはすっかり忘れていた。

キャンプで

夕食後に行われた全体の振り返りの中で、教授はMBAチームが昨日に比べて善戦したことをいくつかのリーダーシップに関するプリンシプルと照らしながら褒め称えた。すると、昨日・本日のトップチームのリーダーが立ち上がって質問をした。

 

「あなたはMBAを褒めますが、そんなに素晴らしいし若いのにどうして結果がついてこないんですか」

 

なんて嫌なことを言う野郎だ・・・とMBAが静まり返っていると、なんと汪哥が立ち上がり話し始めた。

 

「そんなふうに彼らを攻撃することはない。彼らに足りないのは知識と経験だけだ。いいチームを作るためということもそうだし、ウォーキングのスペシャリストもいない。私は、自分の会社を経営する中でいつも彼らのような若い人達とのコミュニケーションに課題を抱えていた。何を考えているかわからないし、信用できないと思っていた。今日私は脱落した後、ずっと並走車の中から彼らを見ていて、彼らが真剣に勝ちたいと思っていることを知った。また、彼らは昨日夜遅くまで議論をしていた。EMBAのどんな小さな秘密でも知りたがった。今回、MBAチームに参加することができてよかったと思う。あなたも彼らのことをもっと知るべきだ」

 

MBAに対して否定的だと思っていた汪哥が立ち上がったことに驚きを隠せなかった。今の今の瞬間まで、「厳しいおっさんが途中で脱落した」としか思っていなかった自分を恥じた。周りを見ると、何人かが泣いていた。

 

テントに戻ると汪哥は僕らにこう言った。「今日は迷惑をかけて本当に申し訳なかった。明日自分は、脱落者だけを集めた黑马队(黒馬隊、ダークホースチーム)で歩く。ここで最後まで歩けば、君らのチームのペナルティにはならないらしい。もう歩けなくなってもいい覚悟で歩くつもりだ」

 

リーダーシップのはじめ方

おそらくどのようなテキストを開いても、リーダーシップはまずは「自分を知ること」、そして次に「他人を知ること」から始まると書いてある。

 

できているつもりだった。プロジェクトマネージャーとして、メンバーの成長や働く意味にも気を配っているリーダーのつもりだった。MBA以降、更に高いレベルでそれができるだろうとも思っていた。

 

しかし、上司に対してはどうだっただろうか。あるいは、新人に対しては?自分は、同じようにハードワークを厭わない体育会的な男性組織の中で、年が近い男性という、一番自分がコミュニケーションしやすい相手にリーダー役がうまくできているつもりになっていただけではなかったか。「この人はきっとこういう人だろう」と、仮説という聞こえのよい概念に甘えて、無用な仮定を勝手に置き、ゼロベースで接することを怠っていなかっただろうか。その仮定は、自分と近しい均一的な集団相手にのみ通用していたものではなかったか。

 

MBAプログラムはダイバーシティ経験がその重要な役割を占める。しかしここでのダイバーシティとは、主に国籍のことを意味する。自分にとって、ジェネレーションギャップは国籍の差異を超えるよりも難しい問題だったのではないだろうか。

 

「上司をうまく使ってPJを成功させなければいけない」「上司の無理な要求からチームを守らなくてはいけない」等々、上司のことを交渉相手のようなものとして見ていたのではないか。チームの一員として、一人の人間としての彼らを知るための努力をしていたか。彼らが人として求めていることが何かを考えようとしていただろうか。もちろん上司に限った話ではない。自分と同じような、自分が付き合いたいと思う人達のこと以外を、人間としてチームとして接するために、彼らを本当に理解する努力を怠っていた。

 

中国は素晴らしい地獄

三日目ももちろん色々あったが、多くは書かない。僕らはその後誰も脱落せずに歩き続け、全体で7位に入った。最下位は黒馬隊だったが、彼らは全員が足を引きずりながらも歩ききった。

 

全てが終わった後のパーティで、汪哥が足を引きずりながらビール瓶を抱え僕らのテーブルに来た。そして袋から両手一杯に何かを取り出しこう言った。「最終日、ずっと君たちのことを考えながら歩いていた。歩きながら、綺麗な石を集めていた。この石を見るたびに、この砂漠であったことを思い出して欲しい」

 

こうも言った。「人間の価値は、いくら稼いだかでは決まらない。社会に対してどれだけの貢献をするかだ。私がそうであったように、君たちもこの砂漠での学びがあったはずだ。これから始まるキャリアの中で、それを活かせるはずだ。どうか社会に貢献していって欲しい」

 

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終わりに 

Maxがこう言っていた。「中国におけるジェネレーションギャップは恐らく他の国よりも大きい。汪哥の年齢の人が自分の胸の内を吐露することは本当に珍しい。彼らには面子がある。僕らも汪哥を理解する努力を怠っていたし、汪哥もそうだったよな。今回参加出来て本当によかったよ」

 

軽い気持ちで参加したクラスだったが、改めて大きな学びがあった。中国という国で参加することができたのもよかった。

 

砂漠の翌日の振り返りで教授が言っていたことを思い出す。「外国に暮らすのはまるで天国、街は綺麗で空気はおいしい。それに比べたら中国は地獄。でも、素晴らしい地獄だ。退屈したくない人にはいいでしょうね」

 

上海も残り2ヶ月だ。

ゴビ砂漠にて(1/2)

CEIBSに来る前のある日、「ゴビ砂漠での『Leadership in Actionコース』に興味はある学生は早期に申し込むこと」とのメールを受信した。詳細はよくわからなかったが、どうやら3日ほど風呂にも入らずにぶっ続けでゴビ砂漠を歩き続けることで2クレジット分の単位がもらえ、その費用の大部分はEMBAの卒業生がスポンサーとして負担してくれるとのことらしい。

 

例年EMBAのみで開催していたところ、今年は初めてMBA生を交えるとのことだった。MBAオフィスによればMBAからは30人ほどの参加見込みらしいので、興味のある学生がそれほど多いとは言えない。MBAはプログラム全体がリーダーシップコースみたいなものなので、ここまで来てリーダーシップか・・・という気持ちもなくはなかったが、HKUSTから同じくCEIBSに来ている仲の良い二人も参加するということだったので、軽い気持ちで参加してみることにした。

 

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1日目、レース開始

レースの概要

ルールは前日夜にようやく語られた。基本的には一日約30kmの道のりを如何に早くゴールに到達するかで得点が割り当てられる。内容は語れないものの道中で色々な課題が与えられ、この達成度によっても得点が与えられ三日間の総合得点で競うのだが、基本的には早く到達することによる得点の寄与度が大きい。

 

隊列は50m以上に伸ばしてはならないというルールがあり、破るとペナルティが与えられる。また、一人が継続不能になる度にかなり大きな得点減が一日毎に課せられるため、脱落者を出さないこともかなり重要。

 

なお、脱落するとその時点でコースがFailとなり、単位が与えられない。MBA生にとってのFailによるインパクトはかなりのものである。よって、全参加者ともに「踏破」は最低限目指すべき目標として持つこととなる。

チーム構成

チームメンバーのことも記しておきたい。EMBAからは8チーム・MBAからは3チームという全体構成で、各チームには約10人が割り当てられ、これも前日夜に発表された。

Nigel:中国人。チームリーダーを引き受けてくれた

Peng:中国人。GPSに基づいて旗を持つ僕の道案内をしてくれた

Panda:中国人。見るからに屈強な身体を持ち、リーダー感が溢れていた

Judy:中国人。後述するが、一日目にチームを離れたのであまり話す機会がなかった

Max:中国人。かつての同僚の木下さんに似ているので心の中で木下と呼んでいた

Xueyi:中国人。今回一番身体が小さく、苦戦を強いられていた

New:タイ人。Xueyiほどではないが苦戦を強いられていた

Toni:LBSから来たBCG出身のドイツ人。Pandaと並ぶ体格を持つエース格

Sara:INSEADから来た世界銀行出身のポルトガル人。アジア人中心でともすれば予定調和になりそうなチーム内で、あらゆることに異議を唱え続ける役割になっていた

僕:HKUSTから来たポン人。目立ちたいの一心で先頭に立つ騎手を引き受けた

チームの目標

EMBAというのはエグゼクティブ向けのMBAで、全て中国語で提供されるプログラムである。中国の上場企業のCEOの10%はCEIBS卒業生と言われているが、社長に近い幹部又は社長自身がCEIBS EMBAを卒業していることによる貢献が大きいだろう。いずれにせよ、EMBAの参加者は40代から50代が中心となる。

 

対するMBAの平均年齢は20台後半といったところ。これを踏まえチームで議論し、目標は「TOP3」とすることになった。MBAチームは体力レベルを勘案して均等に割り振られているので彼らに勝てるかわからないが、EMBAには負けないだろう。TOP3はMBAが独占するというのが順当な見立てだという判断によるものだった。

レース結果

ところが、全くそのようにはならなかった。結論から言えば、1位から8位までをEMBAチームが独占。MBAチームは下位3つに並ぶことになった。

 

先頭のペースメイクは騎手の僕が担当していたのだが、女性を中心に既に足の痛みを訴える者がいたとはいえ、自分自身決して楽ではないペースで歩き続けていた。仮に自分一人で歩いていたとしても、8位より上に行けたかはわからなかった。

 

このレースには一度しか参加できない決まりになっている。昨年までの情報を持っているから有利というわけでもなさそうだった。

レース終了後のキャンプで

この結果には皆愕然としていた。幸いにして脱落者はいなかったとはいえ、本当になぜこんなことが起こるのかわからなかった。戸惑いながらもどうすべきかを議論していると、オーガナイザーがテントに入ってきた。

 

「今からチーム間でメンバーのトレードを行います。この日の最後の課題として、トレードに出す一人を選んでください。トレードされた者がトレード先で走行不可能になった場合にはトレード元のチームにも脱落のペナルティが課されるので、怪我をしている者・しそうな者を選ぶのは不利になることも考慮してください」

トレードに出す一人を選ぶ

なぜそんなことをしなくてはいけないのかわからなかったが、5分以内に議論して一人を選べという。

 

これには難儀した。色々な議論があったのだが、「トレード先がEMBAのチームになるとしたらいい機会なので行きたい」とJudyが言い出してくれたので、Judyを出すことになった。

汪哥を迎える

トレード相手は各チームのリーダーが選ぶ。白髪で痩せた眼光の鋭いEMBA生をNigelがテントに連れてきた。下の名前は汪(Wang)さんといい、50歳ほどの創業経営者とのことだった。中国人達は「汪哥(Wangお兄さん)」と呼び始めた。

 

旺哥は英語が全く話せない。汪哥だけでなく、EMBA生にMBA生と同レベルで英語を話せる人は殆どいない。Maxによれば、改革開放を大きな境目として、80年代生まれ(80后という)以降とそれ以前では教育水準が全く異なることによるためとのことだった。本では読んだことのある話だ。

 

夕食の時に、汪哥のいないところでNigelがMBA生達に告げた。

「汪哥は最初、僕らのチームに来るのを嫌がってたんだ。決意が足りない、勝利への意欲がないと言うんだよ。でも、そんなことないだろ?だから説得して何とか連れてきたんだ。明日はもっと頑張ろう」

テントでの議論

いずれにしても、何らかの作戦を立てなければいけないことは明確だった。僕らはありとあらゆることを旺哥に質問した。ランチの休憩では何分止まっていたのか、隊列はどうやって組むべきか、等々・・・。

 

汪哥はぶっきらぼうながらも一つ一つの質問に答えてくれていたが、やがてこう言った。

「お前達、明日は何位を狙っているんだ」

Nigelが答えた。「TOP3です」

「無理だ、現実的な目標を置け。EMBAは強い」

 

僕はこう言った。「正直に言って、年齢層が高いEMBAが明日もこのペースを保てるとは思えないんです。明日はきっとEMBAから脱落者が出る。我々は誰も脱落しないようにペースを保てば、総合得点でTOP3に入れる可能性があるんじゃないかと」

 

汪哥はこう言った。「無理だ。彼らは中国における最初のアントレプレナー世代だ。生きるためには勝たなくてはいけないことを知っているし、何も失いたくないと思っている。お前達何でも持って生まれてきた80后・90后とは違うんだよ」

 

「まあ作戦はお前達で決めていいから」汪哥はそう言うと、寝袋に入ってしまった。

 

僕らは各々しばらく黙っていたが、汪哥に教えてもらった情報を元に翌日の作戦を立て、眠りについた。目標は引き続きTOP3に置く。翌朝は6時半起床だったが、既に12時を回っていた。

 

(つづく)

外国人臨時宿泊登記(後編)

(前回まで)

LINEの送信ボタンを押してからふとまた不安になる。なんでこいつ、LINEなんだ…?中国人ならWeChatだろ。仮に海外にいようが、WeChatを使わないのは不自然だ。こいつひょっとして中国人じゃないんじゃ…?そういえばこいつ美人すぎるんだけど、Airbnbで売りやすいように名義だけ貸してるやつなんじゃ…?てことはこいつ、不動産の所有者でもなければ真の貸主でもないんじゃ…?すなわち一種のハニートラップ…?これ以上深入りすると最後すごい怖い人出てきた上にパスポートに「淫虫」って押されてもう入国できなくなるんじゃ…?(それは台湾)

 

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カナダにいるAirbnbの貸主VanessaにLINEを送ったところ、数時間後に返事が返ってきた。

Vanessa > 不動産の持ち主は法人で、〇〇公司。担当者は〇〇。私の中国名は〇〇。はい、本件は転貸です。登録がうまくいくことを祈っています。

拍子抜けするほど簡単に教えてくれた。いやいや、不審なことはまだ残っている。

 

僕 > 変なことを聞くけど、Vanessaは中国人なの?

Vanessa > 中国人ですよ。なぜ?

僕 > WeChatじゃなくて、LINEかWhatsAppで連絡しようって言ってきたから

Vanessa > はは、あなたが日本人だからそちらの方がいいかなと。私は昔から日本が大好きなので、今回あなたに泊まって頂けて嬉しく思っています。RFTR(外国人臨時宿泊登記)のことで面倒をかけて申し訳ないです

 

なんと、普通にいい人じゃないか。あなたの好意を疑って申し訳ありませんでした。僕は心が汚れているんです。

vs警察(2回目)

前日訪れた際には不動産の所有者の名前さえ分かればよいということだった。だが、そもそもこの物件で転貸が認められているのか(自分が気にすることではないのだが)、また、会社が持ち主ということになるとその会社に連絡せよといったことになると面倒くさいと思い、法人所有であることとVanessaの存在は伏せておき、いざとなったら伝えることにしようと思った。

 

僕 > 書類を全部持ってきました。不動産の所有者の名前はこれです(不動産会社の担当者の名前を見せる)

警察官 > 確認します(でかいファイルを持ってきて調べ出す)。不動産の所有者の名前はなんですか?

僕 > (なぜ同じことを聞いてくる!?中国語が通じなかった!?)これです(もう一回見せる)

警察官 > いいえこれではありません

僕 > (あのファイルに全ての所有者情報が載っているのかな?本当のことを言うしかない)あー、忘れてました!この人は担当者で、持ち主は〇〇公司という会社です。〇〇という人が借りていて、その人が僕にAirbnbで貸しています

警察官 > はい

 

・・・どうやらOKそうだ。

 

となると、次は罰金を課されるかどうかである。この登記は本来入国後24時間以内に必要なものだが、既に2週間ほど遅れている。しかしそこは中国、現場の判断でただのwarningで終わることもままあるそうなのだ。ここは一つ、MBAで培った羞恥心ゼロ精神で捲し立てることにした。

 

「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい!私、中国愛してます。私中国いる理由です。留学勉強しています。中国愛してます。中国歴史、中国文化、中国人。私パスポート見る?たくさん、中国行ってます。いっぱい中国行きたい。中国の夢、私の夢。中国愛してます」(原文の中国語レベルを再現)

 

警察官がどこかに電話をかけ出す。自分のリスニング能力ではあまり聞き取れないが、8/25に入国しているのにまだ登記をしていない日本人がいる、と報告してるようだ。きっと彼女は罰金を課すべきかどうか上司に相談しているのだろう。

 

彼女の電話が終わった。

「次中国に来るときは必ず登記しますか?」 

「はい!!!!」 

 

なんというか、めちゃくちゃ感じのいい警察官だった。公安ってもっと問答無用で怖いのかと思ってたよ。最後ちょっと笑ってたしな。

 

ふと横を見ると、若いアメリカ人が必死な様子で英語で警察官と話していた。「8月の終わりまではホテルに泊ってたから不要だったんだけど、その後今のところに移ってから登記のことを知らなくて・・・はい、大学生です。本当にごめんなさい。罰金ですかね・・・?」

 

ハーン!こいつも苦労してやがるな。ここは初めてか?肩の力抜けよ。しかもたかだか1週間ぐらいでそんな(笑)こっちは2週間やってんだから。急に先輩風を吹かせたい気分になってきた。アメリカ人を担当している警察官が奥に引っ込んだすきに、僕は"Should be OK ^_<"と如何にもウザい顔をしながら話しかけた。彼は突然話しかけられたことに一瞬びっくりしながらも、"Yeah"とだけ答え、すぐに目を逸らして"I hate mosquitos"と言いながら足元の蚊を気にしていた。

終わりに

警察署、及び担当の警察官にもよると思いますが、今後Airbnbを利用して中国に滞在しようとする方のお役に立てれば幸いです。

外国人臨時宿泊登記(前編)

北京⇒香港⇒タイ⇒東京と流れてきた人生の夏休みも、とうとう最終地である上海に到着した。

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実は上海に来るのはこれが人生で四回目である。といっても最初の三回は昔務めていた証券会社での出張なのでほぼホテルとオフィスの往復しかしていなかったし、中国語も全く分からなかったので特に記憶に残るものではなかった(セラーの中方にビールに白酒のショットを落としたものを飲まされまくり、FA+バイヤーの日方クライアントが個室についていたトイレを奪い合って吐きまくった挙句にクライアントの若手が救急車で運ばれて翌日の契約交渉に出席できなかったことぐらい)。

 

それから十年近くが経ち、上海もずいぶん変わったよと皆に言われる。当時と今では中国への興味も理解度も全く異なる。さてどんなに楽しいだろうか、という前に、生活のセットアップには少々時間を要した。中でも、鬼門は外国人臨時宿泊登記である。特にAirbnbを利用する場合の対応方法について、(少なくとも)日本語での情報が見当たらなかったのでここに記しておきたい。

外国人臨時宿泊登記とは

外国人が中国に宿泊する際、入国後24時間以内という無茶なタイムリミットで要求される登録である。ホテルなどに宿泊する場合はホテルが勝手にやってくれるのでこれまで気に留めたことがなかったのだが、それ以外の場合はどんなに短期間でも宿泊する以上は最寄りの警察署に提出することが求められている。

 

北京にいた時には半分見て見ぬふりをしていたものの、今回はある程度長期滞在になるのでちゃんと登録しよう、と思い立ったのだが、提出すべしとされている書類が少々難易度が高い。

  1. パスポート原本+コピー(ビザページ、入国印ページ含む)
  2. 契約書(AirbnbのスクリーンショットでOK)
  3. 家主のIDのコピー
  4. 家主が当該不動産を所有していることの証明書

難しいのは3と4。いささか不安を覚えつつ、貸主との交渉が始まった。

vs貸主

そもそもAirbnbの貸主は、便宜上個人で行っているように見えても大抵はビジネス目的でやっており、先方の素性などわからないものだと思っている。なのでどうせ無理なんだろうなと思いつつ、まずはワンチャン聞いてみることにした。

 

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なんと、代わりにやってくれるという。超ラッキー!想像以上!中国最高!と思って数日忘れていたのだが、ある日急に不安になった。

 

登録したエビデンスとかないんだろうか?ていうかそもそもパスポートは原本が必要で、外国人当人が警察に行かなくてはいけなかったんじゃなかったっけ??

 

この貸主(正確にはそのアシスタント)に、うまくいったかどうか尋ねてみることにした。

 

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なんだか不安が増した。たぶんこいつ登録しにいってねーよ。

 

その後うまくいったならエビデンスを出してくれ、とかゴチャゴチャやっていると、Vanessaという本当の貸主(今までやり取りしていたのはアシスタント)から、LINEでやり取りしようという連絡が来た。

 

Vanessa > あなたの信頼と忍耐に感謝します。私は今カナダにおり、不動産所有権も複雑なため、必要な書類をすぐにお出しすることができないことを残念に思います。私は全力を尽くしてそれらを準備していますが、いつ差し上げられるか明言できません。Thank you for your cooperation!

 

Thank you for your cooperation!じゃねーよ。こっちは24時間以内に提出する必要があるんだよ(この時点で既に300時間以上経過)。

 

仕方ないので学校に相談。なんか貸主が出せないってゆってるんですけど。。。

 

MBA Office > この登録は24時間以内にする必要があります(注:知ってます)。書類は十分でなくても大丈夫な場合がありますので今すぐに警察署に行って下さい。

 

なにーーーーー。さすが中国。なら早いに越したことはない、とりあえず警察署行くべ。

 

vs警察

どこに警察署があるかよくわからないので高德地图で「公安」と打って最寄りの場所に行く。そこからが大変だった。

1軒目:ここではやってない。この紙の場所に行け(これは想定内)

2軒目:ここではやってない。ここはその紙の場所ではない(これは俺のミス)

3軒目:ここはその住所の管轄外だ。外に出て右に向かってずっと歩いたら別のところがある

 

ふざけんなよ。ここまでで2時間近く費やした(俺のミスもあるが…)。そもそも一昨日から高熱で寝込んでいて、まだ体調が悪い。死ぬ。

 

4軒目:なるほど、Airbnbなのね…(Airbnbを知っている!?これは光明か)。でも、貸主の中国名が必要です。IDはなくてもいいです。IDのコピーぐらい出してくれても良さそうなものだけど…なんででしょうね。ちなみにもうあなたは随分遅延しているので、罰金を払わなくてはいけない可能性があります。Warningで終わる可能性もあります。いずれにせよ、ちゃんと登録する際に判断します。

 

罰金はもはや仕方ないと思っていたが、なんとか手続きできそうだよかった!!

 

フラフラな足取りで家に帰りつつ、貸主にLINEする。

 

「Vanessa!不動産の所有証明とかいらないって!所有者・貸主の中国名が分かればいいらしいから教えてくれる??」

 

LINEの送信ボタンを押してからふとまた不安になる。なんでこいつ、LINEなんだ…?中国人ならWeChatだろ。仮に海外にいようが、WeChatを使わないのは不自然だ。こいつひょっとして中国人じゃないんじゃ…?そういえばこいつ美人すぎるんだけど、Airbnbで売りやすいように名義だけ貸してるやつなんじゃ…?てことはこいつ、不動産の所有者でもなければ真の貸主でもないんじゃ…?すなわち一種のハニートラップ…?これ以上深入りすると最後すごい怖い人出てきた上にパスポートに「淫虫」って押されてもう入国できなくなるんじゃ…?(それは台湾)

 

不安が募る。LINEは未だ既読にならない。

 

後半に続く

【中国語】アスペクトまとめ

中国語には時制がない。

 

「そんな馬鹿な」と思うのももっともな話ではあるが、代わりに「アスペクト」という概念によって、不自由なく表現することができる。なのだが、これについては独学でWhy?にこたえるはじめての中国語の文法書を一読したきり常にその場しのぎでやってきたので、本格的に勉強を開始したここらで整理しておく必要があると感じ、以下自分なりに心ゆくまでまとめていくことにする。Why?本を基にしつつも、学術的に誤ることを恐れずに自分が理解しやすいように強引に整理する方針ではあるが、致命的な間違いなどあれば是非ご指摘を頂きたい。

(注:本記事は中国語に興味がある初心者以外には無益な自分用のまとめです)

アスペクトの全体像

アスペクトは日本語で「相」といい、ある動作の発展変化の中のどの段階に動作があるかを示すものである。Why本にある素晴らしい図式を基に、少しだけ改変してみたのが以下となる。

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カッコ内はアスペクト・マーカーと呼ばれるもので、動詞に付属させることでどのアスペクトを示しているかがわかるようにするものである。

 

アスペクトは動作の相を表すものなので、時間の概念とは関係がない。冒頭の通り「中国語には時制がない」ので、「いつ行われたか」自体は「明天」や「昨天」といった語句で表すことにより、過去・現在・未来のいずれとも紐づくことができる。

 

なお、開始相と継続相はWhy本において「方向補語の派生義」として扱われているので、本記事では取り扱わないことにする。

進行のアスペクト

基本的な使い方

動詞を”正在…呢”で包み込むのが進行のアスペクトマーカーだが、この「正」「在」「呢」のうちどれか一つでもあれば進行のアスペクトを示すことができる。

(〇)他们正在吃午饭呢。

(〇)他们正吃午饭。

(〇)他们在吃午饭呢。

(〇)他们吃午饭呢。

 

但し、「呢」だけで表す際は、目的語か連用修飾語を伴っているのが普通である(上記でいうと午饭)。よって、伝わるかどうかは知らないが以下は望ましくない。

(△)他们吃呢。

 

また、中国語では同字同音の連続を避けるため、場所を表す介詞が文中に入る時には、「正在」の「在」は必ず省略される。よって、

(〇)他正在屋里睡觉呢。

(×)他正在在屋里睡觉呢。

となる点には留意しておく。

 

ところでWhy本においては、「呢」自体にアスペクト的な意味があるというよりは、単なる語気助詞として平叙文において「進行や持続のアスペクト、及び『还』や『可+形容詞』と相性がよく、しばしば文末に置かれる」といった形で説明されており、用法として暗記するのもいいのだが、本質的に平叙文においてどのようなニュアンスを持つ語句なのかはここからだけでは定かではない(第34課。なお疑問文においては「思いまどいのような気持ち」を表す語気助詞であるとされる)。

進行:他正在睡觉呢(彼は眠っているところだ)

持続:外边儿下着雨呢(外は雨が降っている)

还:她还会弹钢琴呢(彼はピアノも弾ける)

可+形容詞:今天可冷呢(今日は本当に寒いなあ)

 

と、上記のように並べて考えて見てもちょっとよくわからない。進行と持続については「まだ続いてる感じ」が表されているんだろうか?还と可+形容詞に関しては「~なんだよなぁ」という語気が入っているような気もするんだが、すると進行・持続での使い方とは異なるもののように感じられる。一旦、こういうものだとして暗記するしかないか。

否定文

考え方

進行相に限らず、アスペクトの否定形には常に「没(有)」が使われる。感覚としては、「不~」は「~とは違う、~ではない」という感じなので、ともかく何かが「実現」したことを表すアスペクトの否定においては「~がない、~してない」といった意味で「没有」が使われるイメージとして捉えることができるだろうか。正しい文かわからないが、以下のように考えると自分としては理解がしやすい。

他不吃:彼は吃ということをしない(彼はご飯を食べない)

他没(有)吃:彼は吃というアスペクトを実現していない(彼は食べていない)

 

否定するときには進行のマーカーは取り払ってしまうのが普通。なお、没有の有は省略可能。

(〇)他没有看书。

(〇)他没看书。

 

なお後で詳細に検討するが、「動作をどう行ったか」に焦点を当てる進行相、完了・実現相、及び持続相のうち動作の持続を表すもの(結果の残存ではなく)については全て「アスペクト・マーカーを取り払って没(有)をつける」という形で表現することができ、それらの間に区別はない(いくつか残してもよいアスペクト・マーカーは存在するが)。

例外
  • 否定文でも「在」だけは残ることがある(「正」と「呢」は残らない)
    (〇)他没在看电视。
  • 常に「没有」を使うという基本原則にいきなり反するようだが、「不是」を使う用法もある(アスペクトの否定ではないので基本原則に反しているわけではないと思うが)。「彼は本を読んでいない」と言う時は上記の通り「他没有看书」なのだが、「彼は本を読んでいるのではない」と言う時には「他不是在看是」と言う。使いこなせるかは別として、現時点で感覚的には理解可能な話ではある

持続のアスペクト

基本的な使い方

動詞の直後に「着」のアスペクト・マーカーをつけるだけ。進行のアスペクト同様、文末に「呢」が入ることもあるが、進行相と異なり「着」は必須。

 

上記だけなので平叙文でただ使う分には簡単なのだが、(1)動作の持続を表すか(2)動作の結果の残存を表すかで大きく分かれると共に、身体動作に関してのみ、(3)動作の持続かつ結果の残存を表すというタイプもあり、大きく3種類に分かれる。

  1. 妈妈做着饭呢。 ※持続
  2. 门开着呢。 ※残存
  3. 他在椅子上坐着。 ※身体動作

これらのタイプの違いが、A)否定形での用法とB)進行形との組み合わせ可否に以下の違いを及ぼす。

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否定形

上表にまとめた通り、(1)動作の持続のアスペクトの場合にはアスペクトマーカーの「着」が消える。つまり、のちに見る完了・実現のアスペクトもそうなのだが、動作そのものに着目するアスペクトの否定形は進行・完了・実現・持続の間に区別がないということになるWhy本でこのようなまとめ方がされているわけではなく我流の考えなので合っているかは不明だが)。

  • 他正在吃饭呢⇒(否定)他没吃饭 ※彼はご飯を食べていない
  • 他吃着饭呢⇒(否定)他没吃饭 ※彼はご飯を食べていない
  • 他吃饭了⇒(否定)他没吃饭 ※彼はご飯を食べていない

アスペクトは動作の状態がどうなっているかを表現するものなので、実現していない動作についてはアスペクトもクソもないということだろうか。一方、仮にも実現しており、残存の状態について表すアスペクトについては否定形でも「着」を残すものとして解釈ができそうだ。

※なお、上記のうち進行の否定形だけは「在」を残すこともできる

※完了・実現の否定の場合には「还没…呢」という表現もよく使われる

進行相との違い

違いの本質

進行と持続はどう違うのか?というのは実は少し頭の整理が必要となる。持続しているということはまだ進行しているということなので、一体何が違うんだっけ?ということだ。

 

Why本で紹介されているのは、例えば日本語で「彼女は歌を歌っている」という場合、中国語では以下の二通りで言うことができ、それぞれ意味が違う。

  • 她正在唱歌儿呢((何をしているのかな?という気持ちが事前にありつつ、実際に歌っているのを見て)彼女は歌を歌っている、というニュアンス)
  • 她唱着歌儿呢((さっき歌っていたけどまだ歌っているかな?という気持ちが事前にありつつ、実際に歌っているのを見て)彼女は(まだ)歌を歌っている、というニュアンス)
進行+持続の使い方も可

アスペクトとして見ている部分が近いので、進行相と持続相は相性がいい。実際、進行と持続を組み合わせた、現在完了進行形のような使い方もできる。上述したが、この使い方ができるのは「動作の持続のアスペクト」だけであり、「動作の結果の残存のアスペクト」では許されていないが、この点はことさら意識しなくても感覚として理解することは難しくない。

  • 她正在唱着歌呢(彼女は歌っているところだ)
  • 他正在打着电话呢(彼は電話をかけているところだ)

完了・実現のアスペクト

基本的な使い方

動詞の直後にアスペクト・マーカーの「了」をつけるだけ…なんだが、実際には目的語が定語(連体修飾語)を伴うかどうかで「了をつける位置が異なる」(後述するようにWhy本によればこの言い方は不正確だと思われ、つける位置が異なるのではなく、使うべき「了」が異なるということのようだが、一般学習者にとってはこの方が理解しやすい)。

否定形

「没(有)」をつけ、「了」を落とす。または「まだ~していない」という場合には「还没…呢」という表現もよく使われる。

もう一つの「了」(語気助詞)

「了をどこにつけるか」問題に触れる前に、文字も発音も同じだが文法的な整理として異なる「語気助詞の了」という概念を導入しておく。これは文末に置き、話し手の「ある自体や状況が既に発生したことを認める気持ち」や「状況の変化に気づいた気持ち」を表す。

  • 天气冷了
  • 她今年十岁了
  • 他买了词典了
  • 我写了信了

了をどこにつけるか問題

さて、完了・実現のアスペクトにおける唯一の論点と思われる、「了をどこにつけるか問題」だ。以下の文はいずれも正しいのだが、目的語をどこに置くべきかの規則性が、勉強を始めたばかりの頃には理解できなかった。

(〇)我买词典了。 ※S+V+O+了

(〇)我买了两件毛衣。 ※S+V+了+O

 

この疑問はWhy本が解消してくれた。以下が原則となる。

定語(連体修飾語)がつく目的語の場合

こちらを基本形として考えることにしたい。Why本で明記されている訳ではないため正しいかわからないが、アスペクト・マーカー(正在,着,了,过など)は全て動詞の直前か直後に密着させるのが原則であると思われる。

 

定語がつく目的語をとる場合には、この原則から(外見上も)乖離することはない。即ち、以下の通り動詞の直後にアスペクト・マーカーの了を置く。

  • 买了两件毛衣。
  • 吃了三个面包。
  • 买了很多中文杂志。
  • 他们参观了我们学校的图书馆。
定語(連体修飾語)がつかない目的語(ハダカの目的語)の場合

ところがWhy本の言う「ハダカの目的語」においてはこの限りではない。どうも、

  • (×)我买了词典。
  • (×)我写了信。

これらのように「ハダカの目的語」で終わるのは、「まだあとに言葉が続く感じで、どうにも止まらない」からダメとのことである(この理由はいかにも音を大事にする中国語らしいなあ、と感心してしまうのだが)。

 

ということで、一つの解決法は文末に語気助詞の「了」をつける。こうすると「文が止まる」ということである。

  • 我买了词典了。
  • 我写了信了。

ところがこの時、動詞の直後のアスペクト・マーカーの「了」は省略可能であり、むしろその方が自然だとすら言う。すると、

  • 我买词典了。
  • 我写信了。

となり、あたかもV+O+アスペクト・マーカーの「了」となり、「アスペクト・マーカーは動詞に密着させる」という原則から離れたように見える。しかし実際には動詞の直後のアスペクト・マーカーの「了」は省略されているだけで、文末の「了」は語気助詞だから原則から乖離していないということのようだ。

 

もう一つ解決法があり、それは「文を続けること」。例えば以下の様な形をとれば、一応文が止まるのでOKらしい(なんという音重視の文法なのだろうか)。

  • 我买了书,就回家
  • 我写了信,就去游泳

 

実際に話す時には「次に俺が話したい目的語に定語はつくか!?つかないなら了は最後に持ってこないと!」とかごちゃごちゃ考える余裕も時間もないのでどうしたものだろうかと思ってしまうのだが、たぶん実践的には「目的語が短い時は動詞の後につっこんじゃっていい。よくわからないときは動詞の直後に一旦『了』をつけておいて、目的語が短くて収まりが悪そうだったら最後にもう一回『了』をつけても間違いじゃない」みたいな感覚を磨いていくのかな、と思う。作文ならじっくり考えることができるのだけどなあ。

経験のアスペクト

基本的な使い方

アスペクト・マーカーの「过」を動詞の直後につける。否定形は「没(有)」を動詞の直前につけるだけであり、「过」は落とせない。

 

基本的に上記のみなのでこれが一番簡単なアスペクトかもしれない。但し、以下二つだけ留意点がある。

平叙文と否定文でよくつく副詞が違う

平叙文では動詞の前によく「曾经(かつて、以前)」がつく。

一方、否定文でつけるとするなら「从来(これまで、かつて)」。なんでやねん。

終結の「过」(結果補語)というものがある

例えば以下の文は、「过」が用いられているが「経験」を表すものではなく、その動作が終結したことを単に表す「終結の过」と呼ばれるものである。経験相では語尾に「了」がつくことはないが、終結の过では「了」をつけることができる。

  • 樱花已经开过了。(桜の花はもう咲き終わった)
  • 他们吃过了去饭,就走了。(彼らは昼食をすますと、すぐ出かけた)

将然のアスペクト

基本的な使い方

「まもなく~する(将(マサ)ニ然(シカ)ラントス)」ことを表すアスペクトであり、「要…了」のアスペクト・マーカーで動詞を包んで表すのだが、前につく副詞によって用法がやや異なり複雑なため以下の表にまとめた。

 

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※将の簡体字はちょっと異なる字なのだが表示できないためこのままにしておく

例外(まもなく~しようとした時)

「まもなく~しようとしたとき(要~的时候)」と言う時には「了」が消える。

  • 前天飞机要起飞的时候,忽然下雨了。
  • 昨天我要出去玩儿的时候,我爸爸回来了。

否定形

Why本の中に明記されているわけではないのだが、たぶん平叙文において「彼はまもなく~しようとはしていない」というのは少しおかしな表現であるため、将然のアスペクトにおける否定形というのは疑問形に対する返答としてのみ解説されている。

  • 她们快要回来了啊?
    ⇒还没(回来)呢。
  • 你们就要开学了吗?
    ⇒还没(开学)呢。

上記のように、「还没(V)呢」で「まだです」と返す。

まとめ

自分なりに整理してみるとやはりよく理解することができた。以下に再度エッセンスだけをまとめてみる。

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参考書

上記の整理は一部自分の考察を交えつつも基本的にWhy本に基づいて行った。Why本は、英語ほどテキストが充実していない中国語学習界において、文法書といえばこれ!という扱いになっていると思われる本である。実際、学習書マニアの自分の目から見ても、仮に英語界に存在していたとしてもめちゃくちゃ優れた文法の解説本と言える。初心者泣かせの「そういうものです、おまじないとして覚えましょう」的な処理がほとんどなく、題名の通り「なぜこうなるのか?」をしつこく一緒に考えてくれる最高の文法書と言える。

Why?にこたえるはじめての中国語の文法書

Why?にこたえるはじめての中国語の文法書

 

 

タイインターン記

3ヶ月もある夏休みのうち1ヶ月はタイで過ごすことにした。このところ中国推しが激しく、学校でも中国好きキャラとして認識されていたように思うのだが、もとはと言えば東南アジア志向が強く、HKUSTに決めたのも中国に限らず広くアジアを見据えたいという経緯があった。8月からは上海に行って中国漬けになるということもあり、ここはいっちょ以前からの夢の一つであった「バンコクに住んで働く」というのを実現してやるか!と考えたのである。

 

しかしどこで働くか。ふと思い立ってとある会社のオフィス所在地を調べたところ、タイにオフィスがあることが分かり、すぐにCVとメールを送った。翌日面接をしてすぐにインターンをさせて頂けることになった。

 

この会社こそ、実は僕がこの10年以上に亘って密かにウォッチし続けていた人物の会社なのであった。

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彼との出会い

以前の記事(私の就活不採用体験記)で書いた通り、僕は就職活動で某証券会社のいくつかの部門を受けていた。ハッタリ戦略が功を奏して参加できることになったIBDのインターンの初日、あの六本木ヒルズのエレベーターを上がっていく時に初めてその人に出会った。

 

そばにいた元々の知り合いらしきに「やっぱりここが第一志望なんですか」と問われた彼は、「いえ、僕はコンサルかなと思ってます」と答えた。どうやらトップTierの戦略コンサルティングファームのオファーをもうもらっているらしかった。 

 

「すごいっすねやっぱり!」と言われた彼は、少し謙遜の冗談を交えながら満面の笑顔で応じていた。

 

なぜ自分はこの時のことをこんなに細かく覚えているのだろう。やり取り自体は間違いなく他愛もない内容なのだが、彼の身のこなし方、他人との距離感、屈託のない笑顔などからカリスマ性がにじみ出ていた。

 

そして、その時の自分の感覚はインターン2日目のプレゼン時に正しかったことが証明された。のちに某絶好調ベンチャーでCFOを務めることになる某氏と彼のチームのプレゼンは圧倒的で、当代の就活トップ層を集めたはずの集団の中でも群を抜いていた。もう見た瞬間に負けた、という感じだった。この人たちはたった1日でこんなプレゼンを準備できるんだ、自分なんかが受かるはずがなかった、と思った。彼のチームは3人全員オファーをもらい、僕のチームは3人全員落ちた。

 

彼はインターンに参加した人のメーリングリストを作り、のちに飲み会などを企画してくれていたような気もするけど、オファーをもらえなかった自分はそのメーリングリストのメールを見ることすら避けていたと思う。あんなすごい人達と飲んでも、自分は自爆的な一気飲みぐらいしか楽しいことを提供できないんじゃないか?(ていうかそれって何も面白くないんじゃないか?)ぐらいは卑屈になっていたと思う。

 

住む世界が違う人がいるんだな、と思った。そして、彼の名前は自分の中でコンプレックスのような重しとして残り続けた。

会社設立を知る

「いやぁ住む世界が違うと思いました。かなうわけないっすよ」と表面的に思いつつも、心の底では「本当に住む世界が違うのかな・・・?めっちゃ頑張ったら追い越せたりしない?」と粘着するタイプの人間が僕だ。仕事が落ち着いたり、昇進したりする度に彼の名前で検索をかけていた。

 

僕がジュニアコンサルタントからコンサルタントに昇進した頃⇒彼はどこかの会社の取締役に
僕がコンサルタントからシニアコンサルタントに昇進した頃⇒彼は現在の会社を立ち上げ

 

そして、彼の会社はどんどん大きくなっていき、自分の身の回りで入社する人や、新卒の社員が学生の頃にインターンをしていました、などということが増えてきた。

そしてインターン

あまり例のないことだと思うが、インターンではプロジェクトマネージャーとして7人ほどのタイ・香港人メンバーと働かせてもらった。MBAではいまいち自信が持ち切れていなかった非日本語話者チームのマネジメントを、仮にもプロの仕事として出来た点は密かに大きな自信になった。

 

しかしそんなことよりも、彼が創った会社で働くこと自体に大きな価値があったのだと、最終日になりようやく気づいた。最終日の朝、全社員がテレカンで繋がって会社の全オフィス・全事業の業績を共有するグローバルMTGがたまたまあった。CEOの彼が、流暢な英語で会社の現況を説明していく。

 

バンコクオフィスの仕事しかしていなかった自分は、この時に初めて会社の全容を知った。分野としては多岐に亘るものの、軸となるビジネスモデルは一貫しており、かつその肝の部分は自分がかねてから日本の課題だと考えていたいくつかを真芯から捉えている。やっぱりすごいな、と思いつつも、なぜか心が晴れやかになっていくのを感じた。彼が遠くにいくように感じるたびにコンプレックスを強めていたというのに、それは不思議なことだった。

 

学生の頃は手も足も出なかった。社会人になっても、スライド1枚自信を持って書けない自分に、プリンシパルインベストメントで活躍している彼の世界は想像もできないものだった。

 

しかし今回のインターンで感じたのは、意外にも「同じ世界にいるんだな」ということだった。もちろん彼は昔よりもっとずっとすごいし、自分が彼を追い越せるとも思っていない。というよりも、人の能力というのは追い越す・追い越さないという一方向のベクトルで語るべきではないということを今は理解している。その上で、少なくとも同じ次元に立っているんだなということを、肌感覚として理解することができたのだと思う。

 

これまでに同年代ですごい人というのは他にも会ってきたし、それはコンプレックスという形になるものではなかったのだけど、あの時、まだ自分が何もできない時に、就活の苦い記憶と共に感じた想いは長くコンプレックスとなってしまっていた。それは自分自身のキャリア観が成熟してきたことに加え、この十年強自分なりに仕事を頑張ってきたことと、自分の身を彼の世界に投じることによって、ようやく解消することができたのだ。

 

これは予想していなかった収穫だった。10年以上前に東京で得てしまった呪いのような想いを、北京・香港にはじまったこの長い旅の途中で解消することができた。このことは、ここバンコクにおけるその他多くのきらびやかな思い出と共に僕の記憶に残り続けることだろう。

 

P.S. なおバンコクオフィスの責任者との最後のMTGで上記に近い話を一気にまくし立てたところ、「そんなに好きならいくらでもMTGを設定したのに・・・去る前に話さなくていいんですか」と言われたのだが、「こっちが10年以上覚えてるのに、『誰だっけ?』て言われたら僕の心が大変なことになっちゃうじゃないですか!?いいんです話さなくて」と丁重に申し上げたのはまた別のお話

香港を知る三冊

香港生活も残すところあと二週間。先日海南島に遊びに行った際に3冊ほど香港関連の本を読んだので、その中でも「香港 中国と向き合う自由都市 (岩波新書)」という本を中心に、香港の日々を振り返りつつ簡単にまとめたい。

 

香港って中国?何語が話されてるの?といった超初心者は別として、多少香港について知っている人も2014年の雨傘運動のイメージなどから「香港は(大陸の)中国&中国人が嫌いでしょう?」という認識を持ちがちである。しかし実際には、いまこの瞬間を切り取ってもそこまで話は単純ではない。

 

たしかに、「Hong Kong is a part of China」と無邪気に言い切ったり(実際、間違いではないのだが)、国別対抗フットサル大会でただでさえ大きい中国チームに香港・台湾を加えて「Greater Chinaチーム」を悪気なく作ったりする大陸人の同級生に、「I am not Chinese」と言って静かに反発する香港人の同級生を間近で見てきた。しかし、全体観で見るとどうなのか、その背景にはどのような歴史的経緯があるのかを、自分の勉強として整理しておきたい。

 

香港における対中感情の年代別整理

どのように複雑な状況になっているのか、まずは時系列で簡単に振り返る。以下の本からまとめたものであるものの、理解に間違いがあればご指摘いただきたい。

 

香港 中国と向き合う自由都市 (岩波新書)

香港 中国と向き合う自由都市 (岩波新書)

 

 1980年代

第二次世界大戦後、日本から英国に統治が戻った香港は冷戦の最前線地域としての位置づけも持っていた。英国は西側諸国の一角として、かつ返還後の対英感情を可能な限りよいものとするために香港の民主化を模索していたとされるが、香港内部の既得権益層の反発、そして何より北京からの強い反発もあり、返還交渉が始まる1980年代に入るまで民主化に手をつけることはなかった。

1982年に北京でサッチャーと鄧小平が会談し、返還後は「一国二制度」が敷かれること、「行政長官及び立法機関は選挙により選出される」ことが方針として定められた中英共同声明が発表され、英国は香港の民主化を、香港人の求めに応じたというよりも、トップダウンの形で進めた。1989年に天安門事件が起こったことで、返還後の未来に絶望し、移民を考える人も増えたが、英国は引き続き民主化を進めた。

※なお余談になるが、民主化もならず英国統治下にあった香港に自由がなかったというわけでは決してなく、「香港の権力はジョッキー・クラブ、ジャーディン・マセソン商会、香港上海銀行、総督の順に存在する」という言い回しがあったほど、制度上は国王並みの権限を持っていた総督も実際には民衆(というか既得権益層)に耳を傾けながらでなければ統治ができなかったようである。実際、香港文化が花開き「香港人」としてのアイデンティティが芽生えてきたとされる1970年代は民主のかけらもない植民地であったが、「香港における三丁目の夕日」として多くの香港人が懐かしむ古き良き時代であると上述の本では紹介している

※生まれた時から日本人をやっていると、1970年代になってようやく香港人としてのアイデンティティが形成されたというのは新鮮に感じる。上記の本を読む限り、この認識は香港研究ではコンセンサスとなっているようだ。例えば香港映画を代表するブルース・リー(1973年没)に「あなたはなに人ですか」と問うても、「香港人だ」と回答することはなかったのではないかと本書の著者の一人である香港人は言う

※「香港料理」というものも難しい。典型的なのは飲茶なのだろうが、これも広東省も含めた中国南部の習慣であり、「香港料理」とされるものは元をたどればどれも香港ではない。日本から来る人が食べたがることが多い杏仁豆腐も、元々は香港にある上海料理店で食べられていたが、ここ20年ほど香港では食べている人がおらず、日本人が杏仁豆腐を好きらしいということで最近またレストランで出しているものだそうで、要は香港人はそれがどこのものかは気にせず、美味しくて売れればいい。様々なところから持ち込まれ、様々な力に影響され、形を変え、いつの間にかなくなる(そして復活したりする)ということ自体が香港文化の特徴であり、杏仁豆腐はその象徴的な存在であると紹介されている

1990年代

1992年に就任した最後の総督パッテンは、それまで以上に過激に民主化を進めた。このあたりの経緯は色々あるのだが、結果的に北京の反発を買い、民主化にソフトランディングできる可能性があった交渉はかなりの部分が白紙に戻ってしまう。しかし、「立法会議員選出における部分的な普通選挙の導入」「将来的に行政長官選出を普通選挙で行うという中国との約束」「香港人自身の民主化への意欲と期待の喚起」といった点での収穫はあった。

返還~2003年

天安門事件以降に悪評を極めていた中国への返還は、多くの人々が悲観的に見ていた。しかし実際には北京政府は返還直後の香港運営を極めて上手に行った。香港記者協会は毎年「香港言論自由年報」を発行しているのだが、返還前夜の1997年6月に発行された年報では「明らかに、現在の言論の自由は締めつけを受けるだろう」と述べていたところ、2年後の1999年に発行された年報では「状況は当初の暗い予測とは甚だ異なっている。香港特区は相変わらず言論の自由を享受している」と書かれたほど、北京政府は香港の自治に委ね、不干渉とする方針を実行した。これは初代行政長官となった董建華が既に北京の息のかかった人間であったため、表向き厳しく管理する必要がなかったことに加え、一国二制度を成功させることで台湾や国際社会にアピールするという目的もあったようである。この時点での香港人の一般的な対中感情は、「思っていたよりも悪くはなかったな」というところだろうか。

2003年~北京オリンピック前後

こうした政治的状況の一方、返還後の香港経済は危機を迎えていた。1997年の返還直後に始まったアジア通貨危機に対抗するための当局による金利爆上げによって香港の株式市場・不動産市場が爆下がりしたことに加え、2003年のSARSの流行が追い打ちをかけた。

こうした中、中国政府は香港製品の無関税での大陸輸出や大陸の一部住民の香港への個人旅行の解禁からなる「中港融合」を進め、香港経済はV字回復する。SARS以降閑散としていた香港の街並みには中国人が溢れ、活気が戻った。2007年10月に香港大学が行った世論調査では、中国中央政府を「信任する」と答えた人が59.0%、「信任しない」と答えた人は12.9%程度となった。この北京オリンピック前後が、香港人の対中感情が最も良かった時期であるようだ。

しかし、中港融合は同時に副作用ももたらしていた。

  • 香港のインフラの圧迫:交通機関や商店の混雑だけでなく、香港の永住権と一人っ子政策からの抜け道を狙い、香港で出産する中国人が爆増し、香港の産科病床が不足するなどの問題が起こった
  • 不動産価格の高騰:中国人の不動産買い占めにより、不動産価格が爆騰した。先日香港に赴任になったばかりの方が「香港は家賃がだいぶ高いそうで、セントラルのあたりは丸の内ぐらいするそうですね」と仰っていたが、そんなのんきなものではなく、セントラルの坪当たり賃料は今や丸の内の2倍ほどとなっている
  • 大陸人への感情的対立:大声で話す、電車内で飲食する、街中で子供に排泄されるといったマナーの悪さへの反発(個人的にはもうここまでマナーの悪い中国人は見かけていないが)。なお、もともと香港では返還以前から大陸人は自分達に比べて田舎者だ、という一般的な印象があり、ポップカルチャーの中でもそのように描写されることが多かったようである

一方で、上記の通り香港経済はもはや大陸への依存なしには成り立たない構造になってしまった。更に、中国における香港の重要度が下がったことも、中国・香港間の交渉力に大きな影響を与えている。中国のGNIに占める香港の割合は、1993年に21.4%を占めピークを迎えたのち、2014年に2.8%となるまで低下を続けている。こうしたことを背景に、以降中国政府と香港人民の対立が目立つようになってくる。

2007年以降

返還時点で、中国は「いつか行政長官の選出を普通選挙で行う」ということを約束していた。ただしそれは「確かにそうは言ったが場所も時間も指定していない。中国がその気になれば100万年後ということも可能・・・」というものであったが、2007年末に北京は「2017年の行政長官選挙を普通選挙でやってもよい」という見解を発表した。しかし、ここには手放しに喜ぶことができない裏があった。

行政長官の候補を選出する指名委員会の構成員を、北京に近しい財界人を中心に構成することができる、という条件付きだったのである、すなわち「投票自体は普通選挙で行なう。ただし候補者は全員北京寄り」というものだった。これと並行して愛国教育の強化政策が進められたりする中で、香港では学生や民主派の議員を中心に民主化の運動が強まっていった。

2014年、雨傘運動

2013年に香港大学の法学部教授がオキュパイ・セントラル(占領中環)という運動を提唱した。署名活動や小さなデモでは北京に圧力をかけられないとして、金融の中心地であるセントラルで非暴力の座り込みを1万人以上で行うことで、北京に抗議するとともに世界の注目を集めようという考え方だった。

北京はこれに強く反発し、ますます締め付けを強めていく。そして2014年、上記の「候補者全員北京寄り」の普通選挙が導入されることが正式に決定されたことを契機に、とうとう79日間に亘り、総参加者数120万人(香港の人口は約700万人)に及ぶオキュパイ・セントラルが実行に移された。ここでは詳細は語らないが、集まった学生に対し警察が催涙弾を発し、それをテレビで見た民衆が応援のためにめいめい催涙弾対策で傘を持つなどして次々と集まった。実際にはセントラルではなくアドミラルティと旺角(モンコック)で占領が行われたが、一緒に座り込まないまでも近所の料理店のおじさんがそっと無言で食料を差し入れたり、黒社会(ヤクザ)の構成員が車で座り込みのバリケードを守ったりなど、学生を起点としながらも多くの香港人を巻き込んだ運動となった。

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 そして今

 雨傘運動以降、中国政府の締め付けは更に厳しくなっており、過激な民主派議員などは当選した後も資格を剥奪されるようなことが多発している。一方で、香港人も決して一枚岩ではないようだ。香港の選挙制は普通選挙である直接選挙枠35枠と、産業界を中心に一部の限られた人が選挙権を持つ職能別選挙枠35枠から成り、後者の選挙権を持つ人は全選挙権者の10分の1以下と圧倒的に少ないながら、その内訳は親中派が多い。要は選挙制度として民意を反映する形にはなっていないのだが、少なくとも前者の直接選挙枠には民意が反映されてしかるべきところ、雨傘運動前の2012年時点に直接選挙枠の55%を獲得できていた民主派は、2018年の選挙では33議席中16枠(48%)しか獲得できなかった(職能別選挙では35席中10議席で29%)。

 

一般的には、親政府派(親中派)と民主派の代表的な支持層の特徴は以下とされるが、職能別選挙での親中派優勢の状況を見ればわかるように超高所得の財界人には親政府派が多い(そして40年前に英国による民主化に反発したのもこの層だった)ので、実際のところはもっと複雑な様相を呈している。

  • 親政府派:年長、低学歴、大陸生まれ、低所得
  • 民主派:若者、高学歴、香港生まれ、高所得

また、雨傘運動のリーダーの一人だったアグネス・チョウに代表されるように、民主派は高学歴の大学生が多いという上記通りのイメージもあるのだが、実際には雨傘運動においてもアドミラルティ組と旺角組でだいぶ毛色が異なっていたようで、旺角の街のイメージそのままに低学歴・低収入だが強い想いを持った香港人の中には、英語のプラカードを掲げるようなアドミラルティ組のインテリなイメージに馴染めずに旺角に移動した人も多かったようである(そして、アドミラルティ組の中には「旺角組は運動の趣旨をそもそも理解できているのか?」「非暴力が大前提だが、彼らは本当に手を出さずにいられるか?」といった意識を持つ者がいた可能性もあると言われている)。

むしろ年代の方が意識の違いとの関連性が高いようだ。 2015年に香港大学が行った、自分は「香港人」「中国の香港人」「香港の中国人」「中国人」のいずれを自称するかを問い、後二者を「広義の中国人」として集計した調査の結果は以下だった。

  • 30歳以上で「広義の中国人」と回答した割合:39.6%
  • 18~29歳で   〃    と回答した割合:13.0%

自分の周りの香港人を見る限りでは、「若者であっても『広義の中国人』を自称する人が13%もいるのか!」というのはちょっとした驚きではある。高い教育を受けた若年層の典型であるMBAの香港人で「広義の中国人」と回答する人はちょっと想像できないからだ(I am not Chinese!と言った彼のように)。しかし、それが香港人の全てではない。香港の財界で力を持つ偉い年長者と仕事するような場合、先方が親中派であるような可能性はそれなりに高い。

香港生活、あと少し

と、上記の話はほとんど香港 中国と向き合う自由都市 (岩波新書)を元にして書いており、ここでは事実をはしょりながら整理するに留まったが、本書中では時代ごとの様々な関係者の証言を基により深い洞察が展開されているので、香港に興味がある人は手に取ってみることをおすすめする。自分はあと少しで香港を去るこのタイミングで読むのではなく、もっと早く読んでいれば街の見方も変わっただろうなと少し後悔している。

 

 なお上記の本を読んでからだと、以下の本を圧倒的に読みやすくなる。こちらは政治経済に留まらず、文化的な側面も含めてよりマニアックな情報を紹介している(一方で、考察・洞察というよりも雑学ファクトブックといった感じ)。

香港を知るための60章 (エリア・スタディーズ142)

香港を知るための60章 (エリア・スタディーズ142)

 

 

上記まで読むと、以下の本を読んだ時の理解度と感じ方が違ってくる。返還前後の香港で2年間を過ごした著者により、一人ひとりの人たちとの交わりが濃密に描かれている。上二冊を読むぐらい香港にハマってしまった人には、この本は一文一文読むごとに悶絶するように面白く感じるだろう。

転がる香港に苔は生えない (文春文庫)

転がる香港に苔は生えない (文春文庫)

 

 

別に、香港が大好きだから今ここにいるわけじゃない。北京から来た時、飲食店のサービスは悪いし広東語は荒っぽく感じるし、むしろあまり好きでなかったとすら言ってもいい。しかし、去る日が近づくほどに惹かれてしまう不思議な魅力をこの街はやはり持っている。その背景は、歴史を少し紐解いてみることで理解が進む。

 

いつかこの街に戻ってくることがあるだろうか。いまはただ、あと少しの香港生活を最後悔なく満喫したいと思っている。