香港生活も残すところあと二週間。先日海南島に遊びに行った際に3冊ほど香港関連の本を読んだので、その中でも「香港 中国と向き合う自由都市 (岩波新書)」という本を中心に、香港の日々を振り返りつつ簡単にまとめたい。
香港って中国?何語が話されてるの?といった超初心者は別として、多少香港について知っている人も2014年の雨傘運動のイメージなどから「香港は(大陸の)中国&中国人が嫌いでしょう?」という認識を持ちがちである。しかし実際には、いまこの瞬間を切り取ってもそこまで話は単純ではない。
たしかに、「Hong Kong is a part of China」と無邪気に言い切ったり(実際、間違いではないのだが)、国別対抗フットサル大会でただでさえ大きい中国チームに香港・台湾を加えて「Greater Chinaチーム」を悪気なく作ったりする大陸人の同級生に、「I am not Chinese」と言って静かに反発する香港人の同級生を間近で見てきた。しかし、全体観で見るとどうなのか、その背景にはどのような歴史的経緯があるのかを、自分の勉強として整理しておきたい。
香港における対中感情の年代別整理
どのように複雑な状況になっているのか、まずは時系列で簡単に振り返る。以下の本からまとめたものであるものの、理解に間違いがあればご指摘いただきたい。
1980年代
第二次世界大戦後、日本から英国に統治が戻った香港は冷戦の最前線地域としての位置づけも持っていた。英国は西側諸国の一角として、かつ返還後の対英感情を可能な限りよいものとするために香港の民主化を模索していたとされるが、香港内部の既得権益層の反発、そして何より北京からの強い反発もあり、返還交渉が始まる1980年代に入るまで民主化に手をつけることはなかった。
1982年に北京でサッチャーと鄧小平が会談し、返還後は「一国二制度」が敷かれること、「行政長官及び立法機関は選挙により選出される」ことが方針として定められた中英共同声明が発表され、英国は香港の民主化を、香港人の求めに応じたというよりも、トップダウンの形で進めた。1989年に天安門事件が起こったことで、返還後の未来に絶望し、移民を考える人も増えたが、英国は引き続き民主化を進めた。
※なお余談になるが、民主化もならず英国統治下にあった香港に自由がなかったというわけでは決してなく、「香港の権力はジョッキー・クラブ、ジャーディン・マセソン商会、香港上海銀行、総督の順に存在する」という言い回しがあったほど、制度上は国王並みの権限を持っていた総督も実際には民衆(というか既得権益層)に耳を傾けながらでなければ統治ができなかったようである。実際、香港文化が花開き「香港人」としてのアイデンティティが芽生えてきたとされる1970年代は民主のかけらもない植民地であったが、「香港における三丁目の夕日」として多くの香港人が懐かしむ古き良き時代であると上述の本では紹介している
※生まれた時から日本人をやっていると、1970年代になってようやく香港人としてのアイデンティティが形成されたというのは新鮮に感じる。上記の本を読む限り、この認識は香港研究ではコンセンサスとなっているようだ。例えば香港映画を代表するブルース・リー(1973年没)に「あなたはなに人ですか」と問うても、「香港人だ」と回答することはなかったのではないかと本書の著者の一人である香港人は言う
※「香港料理」というものも難しい。典型的なのは飲茶なのだろうが、これも広東省も含めた中国南部の習慣であり、「香港料理」とされるものは元をたどればどれも香港ではない。日本から来る人が食べたがることが多い杏仁豆腐も、元々は香港にある上海料理店で食べられていたが、ここ20年ほど香港では食べている人がおらず、日本人が杏仁豆腐を好きらしいということで最近またレストランで出しているものだそうで、要は香港人はそれがどこのものかは気にせず、美味しくて売れればいい。様々なところから持ち込まれ、様々な力に影響され、形を変え、いつの間にかなくなる(そして復活したりする)ということ自体が香港文化の特徴であり、杏仁豆腐はその象徴的な存在であると紹介されている
1990年代
1992年に就任した最後の総督パッテンは、それまで以上に過激に民主化を進めた。このあたりの経緯は色々あるのだが、結果的に北京の反発を買い、民主化にソフトランディングできる可能性があった交渉はかなりの部分が白紙に戻ってしまう。しかし、「立法会議員選出における部分的な普通選挙の導入」「将来的に行政長官選出を普通選挙で行うという中国との約束」「香港人自身の民主化への意欲と期待の喚起」といった点での収穫はあった。
返還~2003年
天安門事件以降に悪評を極めていた中国への返還は、多くの人々が悲観的に見ていた。しかし実際には北京政府は返還直後の香港運営を極めて上手に行った。香港記者協会は毎年「香港言論自由年報」を発行しているのだが、返還前夜の1997年6月に発行された年報では「明らかに、現在の言論の自由は締めつけを受けるだろう」と述べていたところ、2年後の1999年に発行された年報では「状況は当初の暗い予測とは甚だ異なっている。香港特区は相変わらず言論の自由を享受している」と書かれたほど、北京政府は香港の自治に委ね、不干渉とする方針を実行した。これは初代行政長官となった董建華が既に北京の息のかかった人間であったため、表向き厳しく管理する必要がなかったことに加え、一国二制度を成功させることで台湾や国際社会にアピールするという目的もあったようである。この時点での香港人の一般的な対中感情は、「思っていたよりも悪くはなかったな」というところだろうか。
2003年~北京オリンピック前後
こうした政治的状況の一方、返還後の香港経済は危機を迎えていた。1997年の返還直後に始まったアジア通貨危機に対抗するための当局による金利爆上げによって香港の株式市場・不動産市場が爆下がりしたことに加え、2003年のSARSの流行が追い打ちをかけた。
こうした中、中国政府は香港製品の無関税での大陸輸出や大陸の一部住民の香港への個人旅行の解禁からなる「中港融合」を進め、香港経済はV字回復する。SARS以降閑散としていた香港の街並みには中国人が溢れ、活気が戻った。2007年10月に香港大学が行った世論調査では、中国中央政府を「信任する」と答えた人が59.0%、「信任しない」と答えた人は12.9%程度となった。この北京オリンピック前後が、香港人の対中感情が最も良かった時期であるようだ。
しかし、中港融合は同時に副作用ももたらしていた。
- 香港のインフラの圧迫:交通機関や商店の混雑だけでなく、香港の永住権と一人っ子政策からの抜け道を狙い、香港で出産する中国人が爆増し、香港の産科病床が不足するなどの問題が起こった
- 不動産価格の高騰:中国人の不動産買い占めにより、不動産価格が爆騰した。先日香港に赴任になったばかりの方が「香港は家賃がだいぶ高いそうで、セントラルのあたりは丸の内ぐらいするそうですね」と仰っていたが、そんなのんきなものではなく、セントラルの坪当たり賃料は今や丸の内の2倍ほどとなっている
- 大陸人への感情的対立:大声で話す、電車内で飲食する、街中で子供に排泄されるといったマナーの悪さへの反発(個人的にはもうここまでマナーの悪い中国人は見かけていないが)。なお、もともと香港では返還以前から大陸人は自分達に比べて田舎者だ、という一般的な印象があり、ポップカルチャーの中でもそのように描写されることが多かったようである
一方で、上記の通り香港経済はもはや大陸への依存なしには成り立たない構造になってしまった。更に、中国における香港の重要度が下がったことも、中国・香港間の交渉力に大きな影響を与えている。中国のGNIに占める香港の割合は、1993年に21.4%を占めピークを迎えたのち、2014年に2.8%となるまで低下を続けている。こうしたことを背景に、以降中国政府と香港人民の対立が目立つようになってくる。
2007年以降
返還時点で、中国は「いつか行政長官の選出を普通選挙で行う」ということを約束していた。ただしそれは「確かにそうは言ったが場所も時間も指定していない。中国がその気になれば100万年後ということも可能・・・」というものであったが、2007年末に北京は「2017年の行政長官選挙を普通選挙でやってもよい」という見解を発表した。しかし、ここには手放しに喜ぶことができない裏があった。
行政長官の候補を選出する指名委員会の構成員を、北京に近しい財界人を中心に構成することができる、という条件付きだったのである、すなわち「投票自体は普通選挙で行なう。ただし候補者は全員北京寄り」というものだった。これと並行して愛国教育の強化政策が進められたりする中で、香港では学生や民主派の議員を中心に民主化の運動が強まっていった。
2014年、雨傘運動
2013年に香港大学の法学部教授がオキュパイ・セントラル(占領中環)という運動を提唱した。署名活動や小さなデモでは北京に圧力をかけられないとして、金融の中心地であるセントラルで非暴力の座り込みを1万人以上で行うことで、北京に抗議するとともに世界の注目を集めようという考え方だった。
北京はこれに強く反発し、ますます締め付けを強めていく。そして2014年、上記の「候補者全員北京寄り」の普通選挙が導入されることが正式に決定されたことを契機に、とうとう79日間に亘り、総参加者数120万人(香港の人口は約700万人)に及ぶオキュパイ・セントラルが実行に移された。ここでは詳細は語らないが、集まった学生に対し警察が催涙弾を発し、それをテレビで見た民衆が応援のためにめいめい催涙弾対策で傘を持つなどして次々と集まった。実際にはセントラルではなくアドミラルティと旺角(モンコック)で占領が行われたが、一緒に座り込まないまでも近所の料理店のおじさんがそっと無言で食料を差し入れたり、黒社会(ヤクザ)の構成員が車で座り込みのバリケードを守ったりなど、学生を起点としながらも多くの香港人を巻き込んだ運動となった。
そして今
雨傘運動以降、中国政府の締め付けは更に厳しくなっており、過激な民主派議員などは当選した後も資格を剥奪されるようなことが多発している。一方で、香港人も決して一枚岩ではないようだ。香港の選挙制は普通選挙である直接選挙枠35枠と、産業界を中心に一部の限られた人が選挙権を持つ職能別選挙枠35枠から成り、後者の選挙権を持つ人は全選挙権者の10分の1以下と圧倒的に少ないながら、その内訳は親中派が多い。要は選挙制度として民意を反映する形にはなっていないのだが、少なくとも前者の直接選挙枠には民意が反映されてしかるべきところ、雨傘運動前の2012年時点に直接選挙枠の55%を獲得できていた民主派は、2018年の選挙では33議席中16枠(48%)しか獲得できなかった(職能別選挙では35席中10議席で29%)。
一般的には、親政府派(親中派)と民主派の代表的な支持層の特徴は以下とされるが、職能別選挙での親中派優勢の状況を見ればわかるように超高所得の財界人には親政府派が多い(そして40年前に英国による民主化に反発したのもこの層だった)ので、実際のところはもっと複雑な様相を呈している。
- 親政府派:年長、低学歴、大陸生まれ、低所得
- 民主派:若者、高学歴、香港生まれ、高所得
また、雨傘運動のリーダーの一人だったアグネス・チョウに代表されるように、民主派は高学歴の大学生が多いという上記通りのイメージもあるのだが、実際には雨傘運動においてもアドミラルティ組と旺角組でだいぶ毛色が異なっていたようで、旺角の街のイメージそのままに低学歴・低収入だが強い想いを持った香港人の中には、英語のプラカードを掲げるようなアドミラルティ組のインテリなイメージに馴染めずに旺角に移動した人も多かったようである(そして、アドミラルティ組の中には「旺角組は運動の趣旨をそもそも理解できているのか?」「非暴力が大前提だが、彼らは本当に手を出さずにいられるか?」といった意識を持つ者がいた可能性もあると言われている)。
むしろ年代の方が意識の違いとの関連性が高いようだ。 2015年に香港大学が行った、自分は「香港人」「中国の香港人」「香港の中国人」「中国人」のいずれを自称するかを問い、後二者を「広義の中国人」として集計した調査の結果は以下だった。
- 30歳以上で「広義の中国人」と回答した割合:39.6%
- 18~29歳で 〃 と回答した割合:13.0%
自分の周りの香港人を見る限りでは、「若者であっても『広義の中国人』を自称する人が13%もいるのか!」というのはちょっとした驚きではある。高い教育を受けた若年層の典型であるMBAの香港人で「広義の中国人」と回答する人はちょっと想像できないからだ(I am not Chinese!と言った彼のように)。しかし、それが香港人の全てではない。香港の財界で力を持つ偉い年長者と仕事するような場合、先方が親中派であるような可能性はそれなりに高い。
香港生活、あと少し
と、上記の話はほとんど香港 中国と向き合う自由都市 (岩波新書)を元にして書いており、ここでは事実をはしょりながら整理するに留まったが、本書中では時代ごとの様々な関係者の証言を基により深い洞察が展開されているので、香港に興味がある人は手に取ってみることをおすすめする。自分はあと少しで香港を去るこのタイミングで読むのではなく、もっと早く読んでいれば街の見方も変わっただろうなと少し後悔している。
なお上記の本を読んでからだと、以下の本を圧倒的に読みやすくなる。こちらは政治経済に留まらず、文化的な側面も含めてよりマニアックな情報を紹介している(一方で、考察・洞察というよりも雑学ファクトブックといった感じ)。
上記まで読むと、以下の本を読んだ時の理解度と感じ方が違ってくる。返還前後の香港で2年間を過ごした著者により、一人ひとりの人たちとの交わりが濃密に描かれている。上二冊を読むぐらい香港にハマってしまった人には、この本は一文一文読むごとに悶絶するように面白く感じるだろう。
別に、香港が大好きだから今ここにいるわけじゃない。北京から来た時、飲食店のサービスは悪いし広東語は荒っぽく感じるし、むしろあまり好きでなかったとすら言ってもいい。しかし、去る日が近づくほどに惹かれてしまう不思議な魅力をこの街はやはり持っている。その背景は、歴史を少し紐解いてみることで理解が進む。
いつかこの街に戻ってくることがあるだろうか。いまはただ、あと少しの香港生活を最後悔なく満喫したいと思っている。